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我が家の食べ物を化学する


鹿島長次



   私は永年にわたり有機化学、特に合成有機化学の研究をしてきました。種々の薬品を溶媒と共に混ぜて掻き回し、バーナーやヒーターで熱して反応を起こさせてきました。さらに、抽出、ろ過、クロマトグラフィー、蒸留、濃縮などの手法で、反応した混合物から反応生成物を純粋に取り出し、その性質を調べてきました。このような一連の操作は高い精度と再現性を必要としましたが、同時に、頃合を見計らう勘、微妙な変化を見逃さない観察力、臨機の迅速な対応、細かな操作を可能にする器用さなども必要としました。
   私は60歳を過ぎる頃から家庭の事情により、単身赴任の生活を余儀なくされました。毎日の食事を自分自身で調達しなければならなくなり、必然的に台所に立つことになりました。心ならずも男子が厨房に入ってしまいました。お米を研いで炊飯器に仕掛けて置きましたから、野菜を切ってサラダを作り、油と塩と胡椒とお酢を混ぜてフレンチドレッシングとし、フライパンで豚肉を炒めてソースで味を付け、鰹出汁の素を入れた汁に溶き卵を入れて夕食の完成です。帰宅してから鍋釜の洗いまで済ませて、30分ほどで食卓に付くことができました。化学反応の円滑な進行のために少量の触媒を加えるように、塩を少々加えるだけで料理の味が格段に際立つことも知りました。段取りの取り方、料理の手順、調味料の入れ方、食器の洗い方など化学実験と極めて似ていて、料理が意外に面白いことに気付きました。
   63歳で定年退職し年金生活を始めましたが、暇を持て余すようになりましたから、永年連れ添ったカミさんの指導の下で、台所に立って料理の修行をすることにしました。揚げ物の後には揚げ油を油濾し紙でろ過をしています。山菜は木灰や重曹を加えてアルカリ性の湯で茹でると、渋味が取れて美味しく食べられますが、渋味は酸性の物質によるものなのでしょうか。ラーメンに欠かせないラー油は唐辛子の匂いと色と辛味を油に溶け出させたもので、抽出という化学実験の基本的な手法と同じです。葡萄の汁で赤色に斑点の着いた布巾は石鹸で洗うとリトマス試験紙のように青色に変わります。目的は違っていても、料理は知らず知らずのうちに化学実験と同じことをしているのです。食器棚の隅には重曹(炭酸水素ナトリウム)や鉄明礬(硫酸鉄アルミニウム)や化学調味料(グルタミン酸ナトリウム)などの化学薬品が並んでいるばかりでなく、塩も砂糖もお酢も考えてみれば化学薬品の一種なのです。
   人間は草食動物でも肉食動物でもなく、雑食動物ですから、種々の食物を食べて生命の維持をするための活力となる栄養にしています。人間をはじめ全ての生物の細胞は全重量の70%が主成分の水、15%が蛋白質、残り15%がリン脂質やDNAやRNAなどの約5500種類の化合物でできています。これらの蛋白質やリン脂質も、食物中の蛋白質や脂肪を体の中で加水分解や縮合反応などの化学反応により必要な形に組み替えられて人間の身体に作り上げられています。また、人間にとって水は栄養ではありませんが、口から摂取する最も大切な物質と考えられます。
   身体の水分が不足すると渇きを感じて本能的に水を飲むように行動します。しかし、生命を維持するための活力となるブドウ糖や身体を作り上げている蛋白質や脂肪を単独で摂取することができませんから、体内のブドウ糖や脂肪や蛋白質の不足が起こりかねません。さらに、人間の体液は海水と極めて近い濃度の食塩をはじめとする各種のミネラル類を含んでいますから、尿や汗として体液を排泄すれば当然食塩などの各種のミネラル類が不足してきます。このような身体の活力や構成素材となる物質の不足を補うように味覚や嗅覚や視覚が刺激して、本能的に食欲を促しています。身体から塩分が不足すると塩辛いものが美味しくなりますし、長時間の運動や重労働で身体の各部の活力が不足するときには、ブドウ糖を必要としますから、甘いものを食べたくなります。肉や魚に含まれるアミノ酸は旨味成分として味覚を刺激し、蛋白質を食べたくなるように食欲を促します。
   このように身体の活力や構成素材となる物質の不足を補うために、本能的に味覚や嗅覚や視覚が脳を刺激して、美味しく食物を食べられるように食欲を増進します。食物の供給が遅れて空腹になったときには、本能が目覚めて味覚や嗅覚や視覚が鋭敏になり、食物を美味しく食べることができます。しかし、近年の飽食の時代には、活力や構成素材となる物質の不足することがほとんどなくなりましたが、食欲を増進するために味覚や嗅覚や視覚が食物を美味しくする本能は人間に残っています。
   煮たり焼いたりする料理法により、旨味成分や甘味成分を増加させ、砂糖や塩を加えて調味します。醤油や味噌などにより旨味成分を加えることで東洋の食文化を豊かにしてきましたが、近年になって化学的に合成したアミノ酸やヌクレオチド類を化学調味料として加えて、旨味を増すようになりました。このようにして、益々味覚や嗅覚や視覚から脳を刺激して、美味しく食物を食べられるように食欲を増進しています。結果として、多くの人が栄養過剰になり、肥満になりますから、身体の各部に負担がかかり成人病を引き起こす原因になっています。
   種々の食材の従来の処理法や料理法では、味覚成分に対する栄養成分の割合が高いために、飽食の時代にあっては栄養過剰になり易くなっています。アミノ酸やブドウ糖などの味覚成分と蛋白質やでんぷんなどの栄養成分との間の関係を化学的に理解することにより、身体に適した量の栄養を美味しく食べることのできる料理の仕方も工夫することが出来るようになると思われます。本書では我が家の台所で毎日行われる料理の手法や材料を化学の知識を織り交ぜながら独善的に見てゆこうと思います。さらに、料理法の化学的な合理性なども考えてみたいと思っております。台所で日常的に為されている料理の手法や知識のうちで、何か一つでも化学の研究や教育に役立つものが見つけ出せれば良いと思っております。また、逆に多くの化学的な技術や知識をもとに種々の食材を化学することにより、食生活を豊かにし、健康な生活をもたらすために、美味しい料理や健康に良い料理を生み出す助けになれば、本書はさらなる意義を持つことになると思われます。
   私の独善的な発想を織り交ぜて考察した結果は 「我が家の食べ物を化学する」 としてpdfの形式でまとめましたので、以下に目次をあげておきます。気楽に読んで頂ければ嬉しく思います。さらに、 choji.kashima@nifty.ne.jp にてこの 「我が家の食べ物を化学する」 に対するご意見、ご質問、ご感想をお待ちしております。


   目次

1. まえがき
男子厨房に入る
人間は食物の化学変化で生命を保つ
2. 何でも溶かす水
液状の水の構造
液状の水の中での物質の挙動
硬水と軟水
塩素臭い水道の水
さしすせそ
旨味は料理の要
水と油の仲直り
仔牛が飲める牛乳
マヨネーズは油と水の混ざり物
3. 牛を食べて豚になる
蛋白質の加水分解とアミノ酸
キモトリプシンの化学
牛から豚への化学変化
牛はじっくり寝かせてから食べる
腐ると美味しくなる蛋白質
黴のお陰で生活は豊かに
蛋白質の鎖の絡み方が性質を決める
豆の蛋白質を固める苦汁
半熟卵と温泉卵
4. 活力の源はブドウ糖
生命の糧は光で創られる
ブドウ糖から二酸化炭素へ
銀メッキに使えるブドウ糖
ブドウ糖の異性体は18種類
砂糖とでんぷんとセルロース
人工甘味料は砂糖の代用品
5. 油は新鮮なうちに
油脂の水溶性
お国柄で名前の違う脂肪酸
脂肪酸の原料はブドウ糖
油脂の性質に影響する不飽和脂肪酸量
魚は脂焼けしないうちに
6. 食材を美味しくする微生物
お酒はエタノールの水溶液
酵母から横領したお酒
お酒の味を決める不純物
すっきりした味わいの蒸留酒
種々の味付けをしたお酒
お酢はお酒の失敗作
排気ガスで膨らましたパン
7. 料理の味を引き立てる香りと色
匂いのもとになる物質は揮発性
果物やハーブや薬草の香り
香り成分とコレステロールは親類の間柄
料理にメリハリをつけるテルペン類
何故カロチンは黄色
ビタミンA不足は視力の低下に
8. 食材を化学して豊かな食生活を
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