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化学屋が講師のお料理教室 1


鹿島長次

(2012.11.4)



   著者は永年にわたり有機化学、特に有機合成化学の研究をしてきました。種々の薬品を溶媒と共に混ぜて掻き回し、バーナーやヒーターで熱して反応を起こさせてきました。さらに、抽出、ろ過、クロマトグラフィー、蒸留、濃縮などの手法で、反応した混合物から反応生成物を純粋に取り出し、その性質を調べてきました。このような一連の操作は高い精度と再現性を必要としましたが、同時に、頃合を見計らう勘、微妙な変化を見逃さない観察力、臨機の迅速な対応、細かな操作を可能にする器用さなども必要としました。その後、心ならずも男子が厨房に入ってしまうことになりましたが、化学反応の円滑な進行のために少量の触媒を加えるように、塩を少々加えるだけで料理の味が格段に際立つことも知りました。段取りの取り方、料理の手順、調味料の入れ方、食器の洗い方など化学実験と極めて似ていますし、調理の仕方や食べ物の取り扱い方が食材の化学的な性質や変化に深く関わっていることに気付きました。
   人間は草食系の男性でも肉食系の女性でもみな雑食動物ですから、種々の食べ物を食べて生命の維持をするための活力となる栄養にしています。人間をはじめ全ての生物の細胞は全重量の70%が主成分の水で、15%の蛋白質のほかに、残りの15%は脂肪やDNAやRNAやミネラルなどの物質でできています。これらの蛋白質や脂肪もそのままの形で体内に摂取することができませんから、食べ物中の蛋白質や脂肪を体の中で変化させて必要な形に組み替えて人間の身体に作り上げています。
   人間の基本的な味覚が西欧では酸っぱい、甘い、苦い、塩っぱいの4味と考えられてきましたが、東洋では酸っぱい、甘い、苦い、塩っぱいのほかに旨いの味が加わった5味と考えられています。身体の水分が不足すると渇きを感じて本能的に水を飲むように行動します。身体から塩分が不足すると塩っぱいものが美味しくなりますし、長時間の運動や重労働で身体の各部の活力が不足するときには、ブドウ糖を必要としますから、甘いものが食べたくなります。身体の構成素材となる蛋白質や脂肪の不足を補うように味覚や嗅覚や視覚が刺激して、本能的に食欲を促しています。元気に成長し活動する時にはイノシン酸が極めて重要な必須の栄養素ですから、好ましい味に感じられるように旨味の味覚ができています。このように身体の活力や構成素材となる物質の不足を補うために、本能的に味覚や嗅覚や視覚が脳を刺激して、美味しく食べ物を食べられるように食欲を増進します。食べ物の供給が遅れて空腹になったときには、本能が目覚めて味覚や嗅覚や視覚が鋭敏になり、食べ物を美味しく食べることができます。古くから「空腹は最良の調味料」という言葉があります。
   人間は消化し易く栄養になりやすい形の食べ物を食べ易いと感じ、不足しがちな栄養を含む食べ物を美味しいと感じる習性を持っていると思われます。さらに、人間は道具を使う術を持っていますから、種々の工夫をして食べ難い骨や硬い繊維を取り除き、食べ易い形にしています。包丁を使って、太い骨を取り除き、食べ物を細かく刻むことにより、消化を援け栄養として吸収しやすくします。加熱したり微生物を利用するなどの技術により栄養として吸収しやすい食べ物に変化させています。さらに、調味料を加えて味を調えたり、食べ物を干したり、漬けたり、燻したり、腐らせたりといろいろな技法を用いて変形します。料理とはこのように食べ物を食べ易く消化し易い形に変形し、味を調えて食欲を促すための作業ですから、人類が始めて文明を持って以来、永年の間に培った人間とけだものとを分ける根源的な文化であると思われます。母親は子供を育てるために毎日長い時間と多くの手間を掛けて食べ物を料理してきましたから、お袋の味こそ料理の原点と思われます。
   人間は水の中に含まれているわずかな蛋白質やでんぷんや脂肪を食べ物にしていると考えることができます。しかも、それらの食べ物もそのままでは体内に吸収することができませんから、水が関与する加水分解反応により消化して、アミノ酸とブドウ糖と脂肪酸とグリセリンに分解して人間の身体を作り、生命を維持する活力にしています。料理はこの食べ物の体内への吸収をより容易に、より効率よく援ける作業ですが、中でも食べ物を水で洗い、水とともに煮炊きすることは最も大切な作業です。言い換えれば、料理は水の中の成分を水で処理して水と反応し易くする作業とまとめることができますから、「水を制するものは料理を制する」ということになります。
   昔から仲の悪い間柄を「水と油の関係」などと例えられるほどで、実際、水と油は天敵のように仲が悪く両者を一緒にしても馴染み合うことができず、2層になって別世界に分かれてしまいます。また、2層になることが許されない時には、水と油を仕切る面が最も小さな球状の油滴となって水の中に仕方なく彷徨います。油の温度が約200℃まで上げられますから、水と油の仲違いを巧みに利用した揚げ物では、食材を高い温度で加熱できると共に表面に付着した水分が激しく蒸発し、表面を乾燥して油で被う高温加熱の調理法となります。また、食べ物の個性となる色や香りの成分となっているものには、水と仲良くするよりは油と仲良くする傾向が見受けられ、水よりも油によく溶けます。油は水と仲が悪いですから、水を制するだけでなく「油をも制するものが料理を制する」ということになります。
   人間の感じる基本的な酸っぱい、甘い、苦い、塩っぱい、旨いの5味を示す味覚物質が水に溶けて口の中に入り、舌の味覚を感知する部分に接触したときに味覚として感じられます。これに対して食べ物の個性となる色や香りの成分は多くの場合に水よりも油によく溶けます。サラダ油などの脂肪は食べ物の個性となる色や香りを引き立たせる役割を果たしますが、味覚物質を溶かしませんから食べても味を感じることが出来ません。しかし、マヨネーズのように味覚物質を含む水溶液に色や香りの成分を含む油を乳化させれば、味と色と香りの付いた油を作ることができます。このように水の特性と油の特性を融和する界面活性剤を利用すれば、水と油の両者を制することができますから、料理を益々変化に富んだ味と色と香りの豊かな物にすることができます。近代化学の技術や知識は200年の歴史しか持っていませんが、その間に水や油に関してもその性質に対する多くの知識や挙動を制御する技術を蓄積してきましたから、水を制し油を制するためには大いに役立つのではないかと思います。
   口の中の味覚を感じる部分に食塩が接触すれば塩っぱく感じ、ブドウ糖などの糖類やアミノ酸の分子が接触すればそれぞれ甘味や旨味を感じます。しかし、口の中で感じた味覚の情報は脳に伝達され、そこで視覚や嗅覚の情報のほか胃腸から伝えられる空腹感などの種々の情報とともに総合的に判断して、食欲を増進したり不快感を与えます。化学の技術で食塩やブドウ糖やアミノ酸の量を正確に調べることはできますが、身体の他の器官から届く多くの情報を総合的に判断できるほどには未だ化学の技術水準は達しておりません。化学の技術や知識では食べ物の味加減を調えることはできますが、食事の季節や時間や雰囲気ばかりでなく食べる人の好みや習慣やそのときの体調などまでは考え合わせることができませんから、料理を美味しくする万能の調味料を作り出すことはできません。人間とけだものとを分けるものは文化であり、中でも食べ物を食べやすくまた美味しくするための料理は最も根源的な文化と思われます。料理が人間を滅ぼす文化ではなく、健康で幸せな生活を築き上げる文化になるように化学的知識も取り入れて進歩しなければならないでしょう。
   人類発生以来の根源的な料理の技法や知識は限りなく奥深い物で、200年の歴史しか持たない未熟な化学の技術や知識で料理の技法や知識を見直すこと自体僭越なことですが挑戦しようと思います。本書では以下の目次に掲げた50項目ほどのことを見直しましたので、字数が多くなってしまいましたからpdf形式でまとめました。少しでも興味を持たれた方は、是非、 本文 も眼を通していただきたく思います。さらに、 本書に対するご意見、ご質問、ご感想をchoji.kashima@nifty.ne.jpにてお待ちしております。


    目次

お料理教室 第1回  味付けの基本
· 男子厨房に入る
· 空腹は最良の調味料
· さしすせそ
· 料理は人間の根源的な文化
お料理教室 第2回  体内での食べ物の変化
· 化学反応は恋愛ゲームの如し
· 蛋白質からアミノ酸への消化
· 半熟卵と温泉卵
· 大豆の蛋白質を苦汁で変性させた豆腐
· 牛を食べると豚になる
· 消化器は矛盾だらけの器官
· 牛はじっくり寝かせてから食べる
· でんぷんを消化してブドウ糖へ
· 人間の活力となるブドウ糖
· 人工甘味料は砂糖の代用品
· 腰周りに蓄積し易い脂肪
お料理教室 第3回  微生物との共生も料理の文化
· 酵母から強奪したお酒
· お酒はエタノールの水溶液
· お酒の味を決める不純物
· すっきりした味わいの蒸留酒
· 種々の味付けをしたお酒
· お酢はお酒の失敗作
· 排気ガスで膨らましたパン
· 資源ごみを調味料に変える乳酸菌
· 「醤」で味付けする東洋の食べ物
· 黴のお陰で生活は豊かに
お料理教室 第4回  水を制するものは料理を制する
· 食べ物の主成分は水
· 水は一風変わった液体
· 圧力鍋はお鍋の優れもの
· 凍らせたまま煮詰めてつくるインスタントコーヒー
· 料理の温度を操る蒸発熱の魔法
· 水よりも蒸発し易い香り
· 水蒸気と共に揮発する香り成分
· 食材を替える水の体積変化
· 飲み水の味を決めるカルシウム
· リトマス試験紙のように変わる食べ物の色
· 0℃では凍らない肉や野菜
· 細胞膜は水だけが通り抜ける半透膜
· 漬物は食べ物を保存する高度の食文化
· 乾燥して保存する穀物
· 水を元気に躍らせて「チ〜ンしましょう」
お料理教室 第5回  油を制すれば料理の巾が拡がる
· 水の溶液も油の溶液も仲良し同士
· 料理の極意は抽出の仕方
· 水分を急速に取り除く揚げ物
· 脂肪の性質に影響する不飽和脂肪酸量
· 魚は脂焼けしないうちに
· 肉を美味しく保存する燻製
お料理教室 第6回  水と油の仲直り
· 水と油を仲立ちする界面活性剤
· 仔牛が飲める牛乳
· マヨネーズは油と水の混ざり物
· メレンゲは卵白のシャボン玉
· 油を水に溶かし込む石鹸
· 水と油の間のまとめ役
お料理教室 第7回  密接な関係にある料理と化学
· 化学的原理に即したお袋の味
· 水と油を制して洗練された料理を


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