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ベンゼンを化学する


鹿島長次


   錬金術から化学へ脱却した19世紀に、香辛料を研究する先人たちはベンゼン環を含む化合物を総じて芳香族化合物(Aromatic Compound)と呼ぶようになりました。この芳香族化合物と匂いの間には直接的な相関関係は見出されていませんが、ベンゼン環を持つ化合物は日常生活にも大いに役立つ多くの非常に興味深い性質を持っていますから、広く深く研究がすすめられました。
   Kekűleは C6H6の分子式を持つベンゼンに対して3本のπ結合を含む平面6角形に結ばれた構造を考えました。強酸性などの過酷な反応条件においてさえベンゼン環は変化せず、ハロゲン化やアシル化やアルキル化やニトロ化やスルホン化などの求電子置換反応により側鎖部分が変化する反応に限って進行します。3本のπ結合を含むこの構造からの非常に反応性の高い物質という予想に反して、化学的に反応性の低い極めて安定な性質は原子上のπ電子による強い共鳴安定化によると説明されました。
   ベンゼン環を上下から挟み込むように環状に分布して均等に相互作用している6つのπ電子は個々の原子に従属することなくかなり流動的に動き回っていますから、ベンゼン環が外部磁場の中に入りますと、電磁誘導の現象により外部磁場を打ち消すようにπ電子が環状の軌道をぐるぐると回る環電流効果を示し、核磁気共鳴吸収により観測されます。また、ベンゼン環の上下には6個のπ電子が存在していますから、2つのベンゼン環が接近しますと環状に分布するπ電子が相互作用し、ベンゼン環の平面が層状に分子間力を生むと思われます。このπ電子-π電子相互作用によりベンゼン環を持つ化合物は相対的に若干高い沸点と融点を示します。このようなベンゼン環の持つ特性は芳香族性と呼ばれ、分子の中でベンゼン環の占める割合が大きければ顕著に現れます。
   芳香族性と呼ばれる特性が生物組織の中の各所に広く生かされています。生物の細胞中に必ず1組だけ含まれているDNAはその生物の進化の過程や生命活動に必要なすべての情報を記憶し、必要に応じて発信していますから、一度その記録内容が不測に書き換えられたり消滅したりしますと細胞は死滅し生命の維持にも危険をもたらします。そのため、DNAは事故や環境の変化に影響されることなく安定に情報を維持しなければなりません。DNAはアデニンとグアニンとチミンとシトシンの4種の核酸塩基の配列の仕方で情報を記録していますが、これら4種の核酸塩基は窒素原子と酸素原子を含む芳香族化合物ですから、化学的に極めて安定で多少の環境の変化などでは変性することがありません。その上DNAに記憶された情報は化学的な反応で他の化合物に正確に伝達しなければなりません。これらの核酸塩基は平面上の複数の部位が水素結合に適した固有の相対位置を保ちつつ固定されていますから、相手となる分子と一義的に水素結合して厳しく選好みして極めて限られた分子しか選びませんが、選んだ分子によりRNAへ情報を正確に伝達してゆきます。また、種々のアミノ酸を生合成する過程ではキノンからヒドロキノンへの還元やジヒドロピリジンからピリジンへの酸化反応が進んでいます。さらに、マグネシウムや鉄の金属元素を中心に置くポルフィリン環が葉緑素やヘモグロビンの活性部分に位置して芳香族性を生み出し、長いπ電子の共鳴による450nmの波長の光吸収や鉄イオンの酸化・還元反応を生体内で円滑に進めています。
   1935年にCarothersが66‐ナイロンを発明して以来、プラスティックが日常生活の中に密着してきましたが、分子の中でベンゼン環の含まれる割合が大きくなるほど、芳香族性が強く現れるようになります。ベンゼン環の割合が高い全芳香族プラスティックは比重がナイロンなどと同じように小さいにもかかわらず分子自体が非常に剛直になりますから、融点や軟化点が非常に高く引っ張り強さに優り屈折率も高くなります。図に示すように平面正6角形の連なった文様は亀甲文様と呼ばれていますが、正6角形のベンゼン環も亀甲模様のように無限に連なって黒鉛と呼ばれる高分子化合物になります。この黒鉛ではベンゼン環の割合が極限まで大きくなりますから、芳香族性が集約されています。6π電子系の共鳴によりベンゼンの安定性が非常に高くなり3550℃の高融点まで変性しませんし、化学的に比較的不活性です。π電子はベンゼン環の平面に全体に共鳴していますから、電子は自由に動き回ることができ金属のように高い電気伝導率を示します。連なったベンゼン環の堅牢な平面構造により分子は平面に沿った方向には強く結合していますから高い引っ張り強さを示しますが、平面と直交する方向はかなり大きな隙間を開けてπ電子-π電子相互作用だけで結ばれ層状に整列します。この隙間には種々の原子やイオンばかりでなく小さな分子まで入り込んで黒鉛層間化合物を形成します。このように黒鉛はベンゼン環の持つ芳香族性が顕著に表れて、優れた 潤滑性、導電性、耐熱性、耐酸耐アルカリ性と層間化合物の形成を示しています。
   本書では化学的な知識や思考方法を基にして芳香族性と呼ばれる個性的で優れた性質が日常生活の中や生体の中で如何に合理的に関係しているか独善的に考えました。ベンゼンや芳香族化合物に関する知見を改めて整理することから、何か一つでも化学の研究や教育に役立つものが見つけ出せれば良いと思っております。また、ベンゼン及び芳香族性について考えることで物質の持つ特性と利用法を考える上で助けになれば、本書はさらなる意義を持つことになると思われます。 このように日常生活におけるベンゼンを化学の知識や経験を基にして納得できるように、「ベンゼンを化学する」 としてpdfの形式でまとめましたので、以下に目次をあげておきます。小難しい部分は読み飛ばして気楽に読んで頂ければ嬉しく思います。この「ベンゼンを化学する」 に対するご意見、ご質問、ご感想をchoji.kashima@nifty.ne.jpにてお待ちしております。


    目次
1. まえがき
· 名が体を表さない芳香族化合物
· 亀の甲の化学
2. ベンゼンの構造と性質
· 共有結合
· KekűleとDewaの構造式
· 安定性と求電子置換反応
· 環電流
· π電子-π電子分子間相互作用
· ベンゼンの沸点と融点
3. ベンゼン以外の芳香族化合物
· 共鳴安定とヒュッケル則
· ベンゼン類以外の芳香族
· 複素環芳香族化合物
4. 生物の体内の芳香族環
· 生体内におけるベンゼン環の生成過程
· フェノールの酸とピリジンの塩基
· ヒドロキノンとキノンの酸化還元
· アデニンとDNA
· ヒドロキノンとキノンの酸化還元
· DNAの情報を伝達するRNA
· アミノ酸の生成過程
· 赤血球と葉緑素
5. 日常生活の中の芳香族環
· 芳香族化合物は色彩豊か
· 全芳香族 プラスティックの液晶
· 芳香族性を集約した黒鉛
6. 芳香族化合物の概観

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